2013年 01月 04日
久しぶりの実家での正月 |
昨年の12月21日から30日までの富良野合宿の後、翌日すぐに庄内の実家に帰り、久しぶりに実家で正月を迎え、今日帰ってきたのでブログを書く暇もなかった。新年早々、去年のことは書きたくないので、実家での正月から書こう。とは言っても、海と雪を見に行った時のことである。
我々が中学生の頃の社会の授業では、日本海側を裏日本、太平洋側を表日本と教わった。その後、差別用語ということで西日本と東日本になったが、裏日本という言葉の発祥は冬の日本海の雰囲気からではないだろうか。日中でも薄暗い空が、そこで生活をしている人々を押しつぶし、粘り気のある鉛色の荒れ狂う海は、そこで生活している人々を寄せ付けない。しかし、自分は冬の海を見るのが好きで、毎年欠かさずに見に行き、エネルギーを注入してくる。そして、春の日本海が七色に染まる時をひたすら待つ。この時期の七色は、あらゆる可能性を秘めた豊穣の海の象徴である。
これが冬の日本海だ。海と空が一体化し、覆い被さってくる。以前は冬の浜辺に打ち上げられたハタハタの卵を拾い集め、砂糖醤油で煮詰め、おやつ代わりに食べたものだが、食べ物が有り余る今は、そんな話しを聞かない。
こんな荒れ狂う海でも、海鳥は活発に活動している。この海の底からは、鳥海山からの伏流水が湧き、ミネラル豊富なイワガキが捕れる。こんな海の底でも、その時を待っているものがいる。
我が家の畑も全て雪に覆われ、左後方に見えるはずの鳥海山は厚い雲の中で、真っ白に輝く崇高な姿を見せることは、余程の気まぐれの時でしかない。
「風の痕跡」
人の手の加わらない力により、人間が行う創造をはるかに超える表現を見せる事がある。自分が求めている「表現をしないで表現をする」の原風景がここにある。
次回は富良野合宿に遡って書こう。
我々が中学生の頃の社会の授業では、日本海側を裏日本、太平洋側を表日本と教わった。その後、差別用語ということで西日本と東日本になったが、裏日本という言葉の発祥は冬の日本海の雰囲気からではないだろうか。日中でも薄暗い空が、そこで生活をしている人々を押しつぶし、粘り気のある鉛色の荒れ狂う海は、そこで生活している人々を寄せ付けない。しかし、自分は冬の海を見るのが好きで、毎年欠かさずに見に行き、エネルギーを注入してくる。そして、春の日本海が七色に染まる時をひたすら待つ。この時期の七色は、あらゆる可能性を秘めた豊穣の海の象徴である。
これが冬の日本海だ。海と空が一体化し、覆い被さってくる。以前は冬の浜辺に打ち上げられたハタハタの卵を拾い集め、砂糖醤油で煮詰め、おやつ代わりに食べたものだが、食べ物が有り余る今は、そんな話しを聞かない。
こんな荒れ狂う海でも、海鳥は活発に活動している。この海の底からは、鳥海山からの伏流水が湧き、ミネラル豊富なイワガキが捕れる。こんな海の底でも、その時を待っているものがいる。
我が家の畑も全て雪に覆われ、左後方に見えるはずの鳥海山は厚い雲の中で、真っ白に輝く崇高な姿を見せることは、余程の気まぐれの時でしかない。
「風の痕跡」
人の手の加わらない力により、人間が行う創造をはるかに超える表現を見せる事がある。自分が求めている「表現をしないで表現をする」の原風景がここにある。
次回は富良野合宿に遡って書こう。
by hd-domon
| 2013-01-04 20:56
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